神ダーリーはなぜ起こる?
沖縄では目に見えないものが見えて錯乱状態になった人や、ずっと心ここにあらずでボーっとしているような人を「神(かみ)ダーリー」にあっていると言います。
「神ダーリー」は神様が降りて憑いた?よくない神にかかってしまった?的な意味合いだったと思いますが(間違っていたら、すみません。汗)、この「神ダーリー」があるのは沖縄だけで、沖縄では精神疾患(統合失調症)の人を「神ダーリー」になっている、と片付ける人がわりと多いように感じます。
これも沖縄でユタ文化が根付いているからでしょう。
とはいえ、沖縄に住んでいる人が皆、「神ダーリー」になるわけではありません。
「神ダーリー」はユタになる前の人(霊媒体質)がなるもので、「神ダーリー」を過ぎると霊力が安定し、一人前のユタになれると言われています。
だから、「神ダーリー」はユタの宿命であり、ユタになるまでの通過点と考えるようです。
さて、この「神ダーリー」ですが、スピリチュアルな視点で分析するとどうなるでしょうか?
そして、なぜ「神ダーリー」が起こるのでしょうか?
これを考えるには、まずユタを理解する必要があります。
ユタとは沖縄のシャーマン的存在です。
だから、ユタは霊能者といえます。
世間にはユタとスピリチュアルを別物で考える人もいますが、ユタとスピリチュアルは別物ではなく、ユタはスピリチュアルです。
ユタ、ユタ見習い、カミンチュはそれを違うと否定しがちですが、否定しようがしまいが、霊的なものは全てスピリチュアルなのでユタもスピリチュアルなのです。
それを踏まえて「神ダーリー」を考えると、もうおわかりのはず。
「神ダーリー」とは「憑依」です。
それも神様(高級霊)の「憑依」ではなく、低級霊(低級自然霊や未浄化霊)の「憑依」になります。
けれども、全ての「神ダーリー」が「憑依」というわけではないと思います。
霊能(霊感)をコントロールできなくて様々な思念をキャッチしたり、生き霊、死霊の影響を受けて混乱したり、疲弊することも「神ダーリー」だと思います。
これは、いわゆる「霊障」です。
だから、沖縄で「神ダーリー」と呼ばれているものは「憑依」と「霊障」と考えていいでしょう。
「憑依」と「霊障」が「神ダーリー」と考えると、「神ダーリー」はユタになる人だけが起こるものではなく、霊媒体質であれば誰でも起こりうるものだといえます。
(条件がそろえば、霊媒体質でなくても起こります。)
誰でも起こりうるものにも関わらず、なぜ沖縄では「神ダーリー」になる人が多いのでしょうか?
そして、なぜ沖縄にしか「神ダーリー」がないのでしょうか?
それは沖縄ではユタ文化が根付いているために、霊的なことに意識を向ける人が多いからだと思います。
ユタ文化の影響で沖縄にはわりと霊的なことに寛大(肯定的)な人が多いのですが、県外はそうでもありません。
だから、沖縄でいう「神ダーリー」、要するに「憑依」や「霊障」が認知されたり、理解されることも少なく、霊的なことに意識を向ける人も(沖縄よりは)格段に少ないのです。
もちろん、県外でも「神ダーリー」のような状態になっている人はいると思いますが、そういう人は精神病(統合失調症)と見なされ、周囲の人間も「神ダーリー」状態の人が霊的な影響を受けているということは理解していないでしょう。
だから、沖縄にしか「神ダーリー」がないのです。
霊的なことは意識を向ければ向けるほど波長が合いやすくなり、そして、影響を受けやすくなります。
「土地のエネルギー(地場)が…。」「霊が…。」「生き霊が…。」「先祖供養が…。」「夢で見たものはなんだろう?」「これはどういう意味(メッセージ)なんだろう?」と普段から霊的なことを意識している人は沖縄にはごまんといますよね。
そういう人ほど「憑依」や「霊障」、「神ダーリー」が起こりやすくなります。
意識を向けると波長が合いやすくなるためです。
彼らのことを僕は自称霊感が強い人と呼んでいるのですが、自称霊感が強い人は「自分には役目がある」「自分はユタにならないといけない」と思い込んでいて、ウタキ(聖地)やパワースポットをめぐる傾向があります。
しかし、ウタキやパワースポットには良いエネルギーや高級自然霊もいるのですが、その反面、救いを求めて未浄化霊がやってきたり、その場に我が物顔でのさばる低級自然霊がいることがあります。
だから、自称霊感が強い人がウタキやパワースポットに拝みや修行?に行き、運悪くお持ち帰りしてしまって「憑依」や「霊障」が起きてしまうこともあるのです。
それを「神様が降りてきた!」「神様が指示してくる!」と本気で信じる自称霊感が強い人たちは更に霊的なことに意識を向けてしまい、ますます「憑依」や「霊障」、「神ダーリー」が悪化するのです。
そうなると、もう手がつけられなくなります。
「神ダーリー」にあっている人は自分に視えること、聴こえること、感じることにとらわれてしまい、冷静な判断力や現実的な思考ができなくなり、人の話を聞く耳がなくなるからです。
ここまでいくと未浄化霊や低級自然霊の操り人形状態になり、霊能者にお祓い(除霊)をしてもらって「憑依」や「霊障」をなくしたとしても、本人の意識、心がけ、生き方、波長は変わらないので、またすぐに新たな未浄化霊や低級自然霊を自ら引き寄せてしまい、「憑依」や「霊障」を繰り返すのです。
だから、そうならないためにも、僕は常々ブログで「地に足をつけて生きましょう!」「霊的なこと(特にオカルトや不思議系)に意識を向けすぎないようにしましょう!」「波長を上げましょう!」「憑依や霊障は気にしないようにしましょう!」と同じことをしつこいくらいに書いているわけです。
なんだかんだ長くなったので、もう一度ポイントをおさらいしますが「神ダーリー」は「憑依」や「霊障」です。
「憑依」や「霊障」は霊媒体質うんぬんよりも「波長の法則」が関係しています。
だから、日頃から高い波長を保ち、霊的なことに必要以上に興味関心を持たないことなのです。
それが「神ダーリー」にならない術であり、どのような未浄化霊、生き霊、悪霊、怨霊からも影響を受けずに生きる術といえます。
結局、それはスピリチュアリズムを学び、スピリチュアリズムを実践することだといえますから、スピリチュアリズムと共に生きていれば「神ダーリー」の心配は一切ないのです。
だから、僕のブログを普段から読んでくださっている皆さんは「神ダーリー」になることはないと思います。
だって、ブログを通してスピリチュアリズムを学んで、そして、きっと日々実践しているはずですから。(笑)
ねっ?(゜∀゜)
Good night☆
「神ダーリー」は神様が降りて憑いた?よくない神にかかってしまった?的な意味合いだったと思いますが(間違っていたら、すみません。汗)、この「神ダーリー」があるのは沖縄だけで、沖縄では精神疾患(統合失調症)の人を「神ダーリー」になっている、と片付ける人がわりと多いように感じます。
これも沖縄でユタ文化が根付いているからでしょう。
とはいえ、沖縄に住んでいる人が皆、「神ダーリー」になるわけではありません。
「神ダーリー」はユタになる前の人(霊媒体質)がなるもので、「神ダーリー」を過ぎると霊力が安定し、一人前のユタになれると言われています。
だから、「神ダーリー」はユタの宿命であり、ユタになるまでの通過点と考えるようです。
さて、この「神ダーリー」ですが、スピリチュアルな視点で分析するとどうなるでしょうか?
そして、なぜ「神ダーリー」が起こるのでしょうか?
これを考えるには、まずユタを理解する必要があります。
ユタとは沖縄のシャーマン的存在です。
だから、ユタは霊能者といえます。
世間にはユタとスピリチュアルを別物で考える人もいますが、ユタとスピリチュアルは別物ではなく、ユタはスピリチュアルです。
ユタ、ユタ見習い、カミンチュはそれを違うと否定しがちですが、否定しようがしまいが、霊的なものは全てスピリチュアルなのでユタもスピリチュアルなのです。
それを踏まえて「神ダーリー」を考えると、もうおわかりのはず。
「神ダーリー」とは「憑依」です。
それも神様(高級霊)の「憑依」ではなく、低級霊(低級自然霊や未浄化霊)の「憑依」になります。
けれども、全ての「神ダーリー」が「憑依」というわけではないと思います。
霊能(霊感)をコントロールできなくて様々な思念をキャッチしたり、生き霊、死霊の影響を受けて混乱したり、疲弊することも「神ダーリー」だと思います。
これは、いわゆる「霊障」です。
だから、沖縄で「神ダーリー」と呼ばれているものは「憑依」と「霊障」と考えていいでしょう。
「憑依」と「霊障」が「神ダーリー」と考えると、「神ダーリー」はユタになる人だけが起こるものではなく、霊媒体質であれば誰でも起こりうるものだといえます。
(条件がそろえば、霊媒体質でなくても起こります。)
誰でも起こりうるものにも関わらず、なぜ沖縄では「神ダーリー」になる人が多いのでしょうか?
そして、なぜ沖縄にしか「神ダーリー」がないのでしょうか?
それは沖縄ではユタ文化が根付いているために、霊的なことに意識を向ける人が多いからだと思います。
ユタ文化の影響で沖縄にはわりと霊的なことに寛大(肯定的)な人が多いのですが、県外はそうでもありません。
だから、沖縄でいう「神ダーリー」、要するに「憑依」や「霊障」が認知されたり、理解されることも少なく、霊的なことに意識を向ける人も(沖縄よりは)格段に少ないのです。
もちろん、県外でも「神ダーリー」のような状態になっている人はいると思いますが、そういう人は精神病(統合失調症)と見なされ、周囲の人間も「神ダーリー」状態の人が霊的な影響を受けているということは理解していないでしょう。
だから、沖縄にしか「神ダーリー」がないのです。
霊的なことは意識を向ければ向けるほど波長が合いやすくなり、そして、影響を受けやすくなります。
「土地のエネルギー(地場)が…。」「霊が…。」「生き霊が…。」「先祖供養が…。」「夢で見たものはなんだろう?」「これはどういう意味(メッセージ)なんだろう?」と普段から霊的なことを意識している人は沖縄にはごまんといますよね。
そういう人ほど「憑依」や「霊障」、「神ダーリー」が起こりやすくなります。
意識を向けると波長が合いやすくなるためです。
彼らのことを僕は自称霊感が強い人と呼んでいるのですが、自称霊感が強い人は「自分には役目がある」「自分はユタにならないといけない」と思い込んでいて、ウタキ(聖地)やパワースポットをめぐる傾向があります。
しかし、ウタキやパワースポットには良いエネルギーや高級自然霊もいるのですが、その反面、救いを求めて未浄化霊がやってきたり、その場に我が物顔でのさばる低級自然霊がいることがあります。
だから、自称霊感が強い人がウタキやパワースポットに拝みや修行?に行き、運悪くお持ち帰りしてしまって「憑依」や「霊障」が起きてしまうこともあるのです。
それを「神様が降りてきた!」「神様が指示してくる!」と本気で信じる自称霊感が強い人たちは更に霊的なことに意識を向けてしまい、ますます「憑依」や「霊障」、「神ダーリー」が悪化するのです。
そうなると、もう手がつけられなくなります。
「神ダーリー」にあっている人は自分に視えること、聴こえること、感じることにとらわれてしまい、冷静な判断力や現実的な思考ができなくなり、人の話を聞く耳がなくなるからです。
ここまでいくと未浄化霊や低級自然霊の操り人形状態になり、霊能者にお祓い(除霊)をしてもらって「憑依」や「霊障」をなくしたとしても、本人の意識、心がけ、生き方、波長は変わらないので、またすぐに新たな未浄化霊や低級自然霊を自ら引き寄せてしまい、「憑依」や「霊障」を繰り返すのです。
だから、そうならないためにも、僕は常々ブログで「地に足をつけて生きましょう!」「霊的なこと(特にオカルトや不思議系)に意識を向けすぎないようにしましょう!」「波長を上げましょう!」「憑依や霊障は気にしないようにしましょう!」と同じことをしつこいくらいに書いているわけです。
なんだかんだ長くなったので、もう一度ポイントをおさらいしますが「神ダーリー」は「憑依」や「霊障」です。
「憑依」や「霊障」は霊媒体質うんぬんよりも「波長の法則」が関係しています。
だから、日頃から高い波長を保ち、霊的なことに必要以上に興味関心を持たないことなのです。
それが「神ダーリー」にならない術であり、どのような未浄化霊、生き霊、悪霊、怨霊からも影響を受けずに生きる術といえます。
結局、それはスピリチュアリズムを学び、スピリチュアリズムを実践することだといえますから、スピリチュアリズムと共に生きていれば「神ダーリー」の心配は一切ないのです。
だから、僕のブログを普段から読んでくださっている皆さんは「神ダーリー」になることはないと思います。
だって、ブログを通してスピリチュアリズムを学んで、そして、きっと日々実践しているはずですから。(笑)
ねっ?(゜∀゜)
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